ナッジ理論とは、行動経済学の考え方の一つです。人が選べる自由は残したまま、望ましい行動のほうを選びやすくする「環境の設計」を指します。2008年、行動経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンの著書『Nudge』で、この呼び名が広く知られるようになりました。相談窓口を作っても、実際には使われない——そんな職場の悩みに、この考え方は役立ちます。
「禁止」「経済的インセンティブ」と何が違うのか
サンスティーンは、人に何かをしてもらいたいときの働きかけ方を、大きく3つに分けています。ルールで選択肢そのものをなくす「命令・禁止」、選択にともなう損得を変える「経済的インセンティブ」、そして選択肢を残したまま選びやすさだけを変える「ナッジ」です。
| 手段 | 何を変えるか | 職場での例 |
|---|---|---|
| 命令・禁止 | 選べる選択肢そのもの | 産業医面談を義務づける |
| 経済的インセンティブ | 選択にともなう損得 | 相談したら手当を出す、相談しないと評価を下げる |
| ナッジ | 選択肢の見え方・選びやすさ | 相談の予約を初期設定にしておく、窓口の情報を目に入る場所に置く |
3つのうち、選ばないという選択肢を残したまま選びやすさだけを変えるのは、ナッジだけです。「相談してください」と声をかけること自体は、悪いことではありませんが、それだけではナッジにはなりません。ナッジが変えているのは、まわりの環境のほうです。相談という行動を実際に選ぶかどうかは、その環境しだいで変わります。
日本でも、環境省が2017年に「日本版ナッジ・ユニット」を設置し、行政の政策づくりにこの発想を取り入れています。特別な理論というより、実務で使われている設計の技術です。
相談しやすい職場を設計する4つの視点(Easy・Attractive・Social・Timely)
英国の行動科学チームBehavioural Insights Teamは2014年、行動を後押ししたいときに検討すべき4つの視点を「EAST」という枠組みにまとめました(2010年に英国政府内で発足し、同年に政府・慈善財団Nesta・職員による独立した組織になったチームです)。相談という行動にあてはめると、次のようになります。
簡単にする(Easy)— 手間を減らす
相談するための手間が多いほど、実際の行動にはつながりません。1on1をあらかじめ予定に入れておき、不要なら断れる形にしておく。申し込みの手順を1つに減らす。窓口の使い方をいつも同じ言葉で説明する。どれも、相談するかどうかの判断そのものではなく、相談するまでの手間を減らす工夫です。窓口への連絡が何段階も手順を踏む設計になっていないか、契約のときに確認しておきたいところです(選び方チェックリスト)。
目立たせる(Attractive)— 思い出しやすい場所に置く
存在を知っていても、必要になったときに思い出せなければ使われません。窓口の案内をいつも同じ場所に固定する、入社時に渡す資料に組み込んでおくといった工夫が、思い出しやすさを左右します。案内文そのものの書き方は相談窓口の社内周知文テンプレートにまとめています。
社会的に見せる(Social)— 使われていることを伝える
多くの人が実際にとっている行動は、それだけで選ばれやすくなります。相談窓口の利用実績を伝えることも、ナッジの手法の一つです。
ただし、これは会社の規模によって扱いが変わります。従業員が数十名を超える会社であれば、「今月◯件の相談がありました」という数字を伝えても、個人が特定されることはありません。一方、50人未満の会社では、件数がそのまま「誰が使ったか」の手がかりになりかねません(EAPとは)。件数を出さずに「この窓口は日常的に使われている場所です」と伝える。経営者自身が使った経験を話す。どちらも、匿名性を保ったまま「使われている」ことを伝える工夫です。
タイミングを選ぶ(Timely)— 負荷が高まる場面に合わせる
同じ案内でも、伝えるタイミングによって届き方が変わります。繁忙期に入る前、異動や昇進などの節目、長時間労働による面接指導の対象になったときなど、負荷が高まりやすい場面に合わせて案内を差し込むと、行動につながりやすくなります。定期的なリマインドの出し方は相談窓口の社内周知文テンプレートでも扱っています。
ナッジ理論が向かない場面 — 深刻な兆候には直接つなぐ
ナッジが効くのは、相談するかどうかを本人がまだ迷っている段階です。すでに深刻な兆候——眠れない、食欲がない、「消えたい」という言葉が出ているといった状態——が見えているときは、選びやすさを工夫している場合ではありません。この場合は、環境を整えて本人の選択を待つのではなく、こちらから直接つなぎにいく必要があります。気づいたときの具体的な対応は社員の不調に気づいたときの対応フローにまとめています。
ナッジ理論が担うのは、深刻になる手前の、まだ軽いうちに相談してもらうための設計です。その手前をどれだけ厚くできるかが、深刻な事態を防ぐ力になります。
※ 出典: ナッジ・選択アーキテクチャの定義は、スウェーデン王立科学アカデミー経済学賞委員会「Scientific Background on the Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel 2017」(2017年)、および Cass R. Sunstein "Nudging: A Very Short Guide"(Journal of Consumer Policy 37(4), 2014)による。EASTの枠組みは、英国Behavioural Insights Team「EAST: Four simple ways to apply behavioural insights」(2014年)による。日本版ナッジ・ユニットについては環境省公式サイト「日本版ナッジ・ユニット(BEST)について」による。
※ 江原 和比己(えはらかずひこ)—— 東京メンタルヘルス株式会社 取締役/産業カウンセラー/日本ブリーフサイコセラピー学会 正会員。IT領域で約25年のキャリアを経て産業カウンセラーに転身。AIを活用したメンタルヘルス支援の社会実装に取り組む。